シバさんとはbemstarで出会うより前に
実は過去にたまたま同じ運動場で
心身を鍛えていたのでした。
それから10年以上もの月日が経ち、
紆余曲折の後に偶然の再開(?)を果たしたのですが
その事を抜きにしても、「サンラン」「こみあげるへや」を経て
(私の中の)“シバミノル”に対する思い入れが
今回の「おととい」に答えを(応えを)無意識に求めていました。
いつも思うのは、何を求めていたのか、ということは
最後の最後まで分からず
ただそのゴールへ向かう様々なルートだとか、
魅力的な近道めいたもの・・・
シバさんの言葉を借りるならば「道具」が
研がれていくような感覚だと思います。
飾られていない美しさ、というのは
歪みの無い純粋な問いから生まれる苦しみ、痛み、にも
似たものなのかもしれません。
シバさんが、自分自身と向き合って生まれたもの、
生まれつつ在るもの、芽生えたもの、
見送らなければならなかったもの、
とどかなかったもの。。
いろいろな想いが隠されずに表現されていると、
その作品に対峙した人間も、
純粋に自分と向かい合わざるを得ません。
そして
いつものようにシバさんのノートに
nell.として素直に言葉をぶつけて、
磨知香菜子として挨拶の言葉を書かせて頂いた時に
私は 社会的な自分と、制作中の自分との距離を目の当たりにしました。
ああ、こんなにもちがうのか、と。
距離感、というのはシバさんが
入口に用意してくださっていた出口のようなもので、
展示期間の観察を経て、それはまた一段と開けた出入口になりました。
ゲームの話ですが、
私はメモリーカードや攻略本を持ち合わせていなかったので、
何面もあるRPGは殆どやった事がありません。
(テトリスが大好きでした)
「一面クリアして階段をあがって新しい面に進んだら、武器が全部使えなくなっちゃった。」
というシバさんの感覚は頼もしさと、羨ましい気持ちが在ります。
シバさんが次の面に行く間、
私は一面のメンテナンスをします。
シバさん、ありがとうございます。
48号室